二所ノ関部屋消滅へ

大相撲の名門で、「二所ノ関一門」の本家である二所ノ関部屋が、現親方(元関脇金剛)の体調不良で初場所限りで閉鎖されることになった。二所ノ関部屋は、明治時代にできたが、今のような一門の繁栄を導いたのは、二枚鑑札で部屋を経営した横綱玉錦関であった。その後は、協会退職後にNHK相撲放送の解説者となった関脇玉ノ海大関佐賀ノ花と継いでいったが、それらの親方は弟子の独立を認め、横綱若乃花(後に二子山になって横綱若乃花(2代、後の間垣)、隆の里(後の鳴戸)、大関貴ノ花(初代、後の二子山)を出した)、輪島を出した花籠、横綱琴桜を出した佐渡ヶ嶽などといった部屋ができ、今のような二所ノ関一門が確立した。また、大関佐賀ノ花が親方だったころは史上1位の優勝32回を樹立し、引退後は1代年寄となった大鵬を輩出したほかに、大関大麒麟(後の押尾川)、関脇麒麟児(後の北陣)などといった多くの関取が出た。しかし、この親方が死去すると、後継者争いで内紛が起き、現親方が後継者となったものの、それに不満を抱いた押尾川が独立するなど、内部にしこりが残り、それが尾を引いて、現親方はあまり関取を育てることができなかった(現親方が育てた幕内は大善(現富士ヶ根)のみ)。今回の消滅で注目すべきは、部屋付き親方が部屋を継承することができなかったということである。その背景には、その親方が弟子を育成することができるのかどうかの他にも、タニマチの後援者がその親方の部屋を支援できるかどうかもあったのではないかと私は思う。